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大河ドラマ「いだてん」の天狗倶楽部は実在したスポーツ社交団体だった。

今年もついに大河ドラマが始まりましたね!

昨年の西郷どんでは、主演の鈴木亮平さんの役者魂が感じられる素晴らしい作品でした。2019年の大河「いだてん」は、第1回の視聴率が15,5%でした。

西郷どんの初回の視聴率15,4%を上回る数字でした。

オリンピックに向けた近代スポーツが舞台となり、戦国武将が主役になることが多い大河ドラマファンの中では賛否両論があるようです。

しかし、大河ドラマ「いだてん」の時代も日本の歴史であり、大河ドラマも東京オリンピックへ向けてのチャレンジもあるのでしょう。

意外と知らない日本のスポーツ史を大河で見ることができるのはありがたいですよね。初回の放送が終わり、ドラマの中で出てきた「天狗倶楽部」が話題になっています。

武井壮さん、満島真之介さん、近藤公園さんが演じる天狗倶楽部のメンバーが目立っていたからでしょうw

「天狗倶楽部」とは一体なんなんでしょうか???

日本における天狗倶楽部の歴史と功績についてまとめてみました。

天狗倶楽部とは?

発足は明確な日時は決まっていないと言われていますが、およそ1909年。

戦前の日本に存在したスポーツ社交団体で、特に野球と相撲の普及に貢献したと言われています。野球殿堂入りする人物を計5人も輩出し、日本初の学生相撲大会を開催するなどしていました。

この天狗倶楽部の中心人物こそ、大河ドラマ「いだてん」で武井壮さんが演じている冒険小説家の押川春浪です。

野球の試合が行われたのが倶楽部の始まりである。なおこの時、試合に参加はしていないものの、作家の柳川春葉と岩野泡鳴が観戦に訪れている。当初は特に集団としての名前もなく「文士チーム」などと呼ばれていたが、羽田球場で早大野球部と米艦クリーブランド(C-19 Cleveland)乗員チームとの試合が行われた際、前座としてやまと新聞チームと試合を行い、この試合の様子を報じた萬朝報が「天狗チーム」と呼んだことから「天狗倶楽部」となった。以後、メンバーは増えていき、最大時には約100人のメンバーを抱えていた(ただし、入退会に特に手続きはなく、また会員名簿もなかったため、メンバーと非メンバーに明確な境があったわけではない)。

活動内容は、野球を中心に相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技など多岐にわたり、参加メンバーの中には、それぞれのジャンルで後に名を成す人間も多い。また、スポーツ活動の内容は、活動後の宴会の様子なども含めて雑誌や新聞の記事として面白おかしく書かれることも多く、それらの読者から大きな支持を受けていた。

1914年(大正3年)、春浪が38歳で病死してからは活動はやや弱まり、さらに中沢臨川や柳川春葉など主要メンバーの死が続いたこともあってか、1930年代(昭和初期)に倶楽部は自然消滅した。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

天狗倶楽部のメンバー

初期メンバー

  • 押川春浪(冒険小説家)
  • 中沢臨川(文芸評論家)
  • 水谷竹紫(劇作家、演出家)
  • 弓館小鰐(新聞記者、随筆家)
  • 吉岡信敬(早稲田大学応援団初代団長)
  • 鷲沢与四二(新聞記者)
  • 太田茂(別名義に太田四州、太田志蹴。ジャーナリスト)
  • 平塚断水(新聞記者)
  • 押川清(春浪の弟。早稲田大学野球部三代目主将)
  • 飛田穂洲(早大野球部五代目主将)
  • 三神吾朗(早大野球部)
  • 西尾守一(早大野球部)
  • 野々村納(早大野球部)
  • 伊勢田剛(早大野球部)

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

盛期のメンバー

押川春浪を慕い、メンバーが集まった。全盛期には100人近くいたとされるが、正式な名簿や入会手続きなどはなかったため、詳細は分かっていない。

  • 押川春浪
  • 中沢臨川
  • 押川清
  • 河野安通志
  • 橋戸頑鉄
  • 飛田穂洲
  • 獅子内謹一郎
  • 柳川春葉
  • 吉岡信敬
  • 弓館小鰐
  • 三神吾朗
  • 山脇正治
  • 水谷竹紫
  • 針重敬喜
  • 小杉未醒
  • 平塚断水
  • 西尾守一
  • 野々村納
  • 伊勢田剛
  • 鷲沢与四二
  • 太田茂
  • 三神八四郎
  • 前田光世
  • 佐竹信四郎
  • 泉谷祐勝
  • 柳川春葉
  • 三島彌彦
  • 玉椿憲太郎
  • 河岡潮風(作家)
  • 三矢新太郎(魚屋)
  • 阿武天風(小説家)
  • 児玉花外(詩人)
  • 満谷国四郎(画家)
  • 倉田白羊(画家)
  • 木下東作(国際女子スポーツ連盟会長)
  • 多梅稚(作曲家)
  • 尾崎行雄(政治家)
  • 尾崎行輝(飛行機研究家、パイロット。後に参議院議員。行雄の息子)
  • 田村江東(別名義に田村三治。ジャーナリスト)
  • 木村鈴四郎(陸軍中尉。日本航空史上初の事故死者)
  • 徳田金一(陸軍中尉。木村と同時に事故死)
  • 長屋正志(岐阜県揖斐郡富秋村村長。早大野球部)
  • 高杉滝蔵(早大教授。庭球部部長など)
  • 森本繁雄(早大野球部)
  • 半田義麿(柔道家)
  • 柳沼沢介(編集者。東京社(現ハースト婦人画報社)社長)
  • 福永光蔵(早大野球部)
  • 山口武(早大野球部)
  • 大村隆行(早大野球部)
  • 八幡恭助(早大野球部)
  • 赤堀秀雄(奈良新聞主筆)
  • 中村秋三郎(弁護士。谷中村の「土地補償金額裁決不服訴訟」で主任弁護士を務めた)
  • 松田捨吉(早大野球部)
  • 小川重吉(早大野球部)
  • 茨木猪之吉(画家)
  • 平岡寅之助(日本製樽社長)
  • 大谷光明(宗教家、ゴルファー。日本アマチュアゴルフ選手権競技優勝)
  • 佐々木勝麿(泉谷祐勝の実弟。慶應野球部主将)
  • 大河内正倫(子爵)
  • 内垣実衛(満州吉長鉄道支配人)

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

大河いだてんで注目の天狗倶楽部メンバーと演じた俳優

武井壮が演じる押川春浪

押川 春浪
おしかわ しゅんろう
誕生 押川 方存(おしかわ まさあり)
1876年3月21日
愛媛県松山市
死没 1914年11月16日(38歳没)
東京府北豊島郡滝野川町田端
墓地 雑司ヶ谷霊園
職業 小説家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京専門学校
活動期間 1900年 – 1914年
ジャンル 冒険小説、SF小説
代表作 『海底軍艦』
デビュー作 『海底軍艦』
親族 父:押川方義
弟:押川清

押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年(明治9年)3月21日 – 1914年(大正3年)11月16日)は日本の冒険小説作家、SF作家。愛媛県出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%AA

満島真之介が演じる吉岡信敬

吉岡 信敬(よしおか しんけい、1885年(明治18年)9月1日 – 1940年(昭和15年)12月7日)は日本の応援団員。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。

なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。

出生は山口県萩市河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。

1898年(明治31年)、早稲田中学校に入学し、野球部に籍を置く。プレーヤーとしてはけして上手くなかったが、応援活動に対しては熱心で、中学のみならず早稲田大学野球部の試合にも必ず顔を出して応援をしていた。早稲田高等予科生となっていた1905年(明治38年)、橘静二(後に早稲田大学学長・高田早苗の秘書)、吉田淳(後に朝日新聞記者)らと早稲田大学応援隊(当時は彌次、声援隊などといわれた)を結成し、隊長となる(橘・吉田の二人が副隊長)。以降、野球を中心に各種スポーツの応援には必ず姿を見せ、応援や場内整理にあたるようになる。この頃から「虎鬚彌次将軍」と呼ばれるようになり、バンカラの代名詞として、一学生でありながら東京のみならず日本全国の学生にまで名を知られる存在となっていった。1906年(明治39年)には応援の過熱がもとで早慶戦が中止になり(以後、1925年(大正14年)まで中止は続く)、このことで一部から批判を浴びるも、人気は衰えなかった。

1909年(明治42年)、親友の冒険小説家、押川春浪が主催したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に加入。同時期には春浪が主筆を務めた『冒険世界』『武侠世界』や安部磯雄主幹の『運動世界』といった雑誌に原稿を発表する。

1912年(大正元年)、早稲田大学を中退し、志願兵として麻布第一連隊に入営。除隊後は読売新聞などに勤めた。

春浪が1914年(大正3年)に死去してからは天狗倶楽部とは距離をおくようになり、『冒険世界』や『武侠世界』で執筆をすることも減っていく。横田順彌はこれについて「信敬には、自分の行動が元で早慶戦が中止になってしまったという負目があり、実際、天狗倶楽部のメンバーの三分の一は、当時の早稲田野球部員で構成されていたから、その両者のパイプ役であった春浪の死によって、信敬は居づらくなったのだろう」と推測している(『明治バンカラ快人伝』、光風社出版、1989年)。以降は、時折雑誌のインタビューなどに登場することはあっても、以前のように表舞台には現れることはなくなった。

1940年(昭和15年)12月7日死去。57歳。墓所は雑司ヶ谷霊園。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E4%BF%A1%E6%95%AC

近藤公園が演じる中沢臨川

中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 – 1920年(大正9年)8月9日)は日本の文芸評論家、電気工学者。 本名は重雄。 海軍大将の塩沢幸一は実弟。

長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。 旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。 中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。 1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。

1901年(明治34年)、上京し、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)に入学。専攻は電気学であったが、文芸に対する熱が冷めたわけではなく、翌年には窪田、吉江、小山内薫らと同人誌『やまびこ』を創刊する。これがきっかけで、国木田独歩らと親しくなった。

大学卒業後、東京電気鉄道会社(都電の前身の一つ)や京浜電気鉄道会社(現・京浜急行電鉄)などで技師として働きながら、1905年(明治38年)、初の作品集である『鬢華集』を出版。以後も文芸評論や翻訳の発表を続ける。 京浜電鉄の社員としては、1909年(明治42年)、羽田運動場の建設に大きく関わった。

1912年(大正元年)、トルストイ論が掲載されたことをきっかけに、『中央公論』で多く評論を発表するようになる。特に1914年(大正3年)から1916年(大正5年)にかけては文芸時評欄を担当した。

1916年には長野へ帰り、会社経営をしながら文芸活動を続ける。この頃には、唯一の小説作品である「嵐の前」も発表した。

1919年(大正8年)ごろから健康を害し、1920年(大正9年)8月9日、咽頭結核により死去。

  • 押川春浪を中心とした社交団体「天狗倶楽部」のナンバー2的な存在であった。
  • 酔うと「馬鹿野郎!」という言葉を連発する癖があった。国木田独歩はこれを聞く度に、「そら、中沢の都々逸がはじまった」と言ってにこにこしていたという
  • 大の犬好きで、家には常に2-3頭の犬を飼っていた。
  • 病気のためもあってか、晩年は性格が暗くなっていた。中央公論編集者の木佐木勝は、1920年(大正9年)に中沢を訪ねた時、中沢の知人が成功した話をすると中沢の表情が曇り、後にその人物が失脚した話をすると表情が明るくなった、ということがあったと語っている。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E8%87%A8%E5%B7%9D

生田斗真が演じる三島弥彦

三島 弥彦(みしま やひこ、1886年(明治19年)2月23日 – 1954年(昭和29年)2月1日)は、明治期の陸上選手。日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックに参加した。名前は彌彦とも書かれる。父は警視総監の三島通庸、兄に銀行家の三島彌太郎がいる。

東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身。

2歳のとき父を失い、学習院を経て東京帝国大学(現・東京大学)法科に進学。

成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身を誇り、学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手になっており、東大時代にはスキー術を修め、この他に柔道は二段、乗馬と相撲も行い、またスケートも大会に出場する程度には上手いなど、スポーツに対する造詣浅からぬ青春時代を過ごした。また、プレイヤーとしてだけではなく、審判も早慶戦で多く務めている。

1911年(明治44年)、陸上競技に夢中になりつつあった頃、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会代表を決める「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で挙行されることになり、審判委員として来場するよう要請があった。要請には答えなかったが、このようなイベントがあることを知り、元々スポーツが大好きであったから、来場のうえ外野で学友と観戦しようと決め込んでいた。ところが、後に本人が語るところによれば「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やうという」という考えで飛び入り参加し、100m、400m、800mの各短距離徒競走で第一位、200mで第二位を獲得。

予選会では、立高跳び優勝の後藤欣一、立幅跳び優勝の泉谷祐勝、走幅跳び優勝の霜田守三などの選手もいたが、選手団をストックホルムまで送る予算の都合などもあり、マラソンおよび10000mに出場が予定された金栗四三と三島の二人が選手に選ばれる。以後毎週土曜日、金栗と二人してアメリカ大使館書記官キルエソンに師事して、陸上競技の様々な技法、心得を学び、例えば400mは予選競技会時の59秒30が50秒台にまで縮まった。

しかし三島は「『かけっこ』如きで洋行してよいものか」という自己内部の迷妄、欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒が派遣されると誤解した文部省の無理解に苦しめられるが、学友や帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、五輪出場の意を固めた(卒業式は大会期間中に予定されていた)。

1912年(明治45年)5月16日、家族や三島が所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」や野球試合で縁のある慶應義塾野球部のOB会である「東京倶楽部」のメンバーらが見送るなか、新橋駅(現・汐留貨物駅跡)からストックホルムへと旅立った。

1912年(明治45年)7月6日、旗手として開会式に登場した。出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく蕭条の観があったが、かえって群集の同情をひいた、と日本人記者は報じている。

当日午後いよいよ短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。スウェーデンではキルエソン書記官の助言を得ることもできないためすっかり意気消沈してしまい、金栗に「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と語った。

つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位となった。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまった。近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多い。

金栗の競技も終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国した。

そのベルリン大会が第一次世界大戦で中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)アントワープ大会が開催されたが、彼は34歳とアスリートしてはにオリンピックに出場できるような肉体を失っていたためか、予選にも姿を見せなかった。

1913年(大正2年)、帝大を卒業して兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。青島支店支配人を経、1939年(昭和14年)本店に戻り検査人に就任している。大学卒業以降はスポーツ界から全く退いており、1954年(昭和29年)2月1日、目黒区で死去するまでメディアに登場したことがほとんどなかった。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6

天狗倶楽部の功績

野球は天狗倶楽部で最も親しまれたスポーツだった。一日に3-4試合を行うことも珍しくなく、結成からの3か月の間だけでも25試合を行っていた。

メンバーの中でも特に、プロ野球の創生に大きく関わった押川清と河野安通志、「学生野球の父」と呼ばれた飛田穂洲、社会人野球に大きく貢献した橋戸頑鉄、スポーツ評論の草分けである太田茂の5人は日本野球の歴史に大きく関わっており、野球殿堂入りしている。この他にも、郷里の岩手で野球振興に努め「岩手野球の父」と呼ばれた獅子内謹一郎、後楽園イーグルスの監督を務めた山脇正治、第一回早慶戦時の一番打者であり、後に宮内省野球班を組織する泉谷祐勝、アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」に入団し、日本人初のプロ野球選手となった三神吾朗などが居た[要出典]

また、東京朝日新聞が野球害毒論キャンペーンを張った時には、春浪を筆頭にメンバーは反対論陣の中心となっている。その他、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が開催された際には地方予選大会に協力した。

ストックホルムオリンピックの代表選手予選が羽田運動場で行われた際には、マラソンコースの距離測定を中沢臨川が行うなど協力した。さらに、もともと審判を務めるつもりであった三島彌彦が飛び入りで参加したところ、100メートル、400メートル、800メートル走で優勝し、代表選手に選ばれる。またこの時、代表選手にこそ選ばれなかったが、立幅跳びで泉谷祐勝が優勝している。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

上記の通り、特に野球とオリンピックに深く関わったスポーツ社交団体といえますね。

日本ではまだ武道が盛んな時代に、西洋のスポーツという文化をいち早く取り入れたパイオニアの集団だったのですね。

天狗倶楽部があったからこそ、今の日本のスポーツ文化があると言っても良いでしょう。

特にメンバーはバンカラで破天荒なメンバーが多かったようで、世論や一般常識にとらわれず、自分たちの好きなことを貫き通すような人たちばかりだったようです。

そんな個性溢れるメンバーが、中心人物の押川春浪を慕って集まったのが天狗倶楽部です。

日本のスポーツ界にとっては、上記に書かれている以上の功績を残したと言えるでしょう。

ドラマの中でも、特に個性が強い役者さんが演じられているので今後の活躍ぶりにも注目ですね。

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